好調
多くのチェコスロヴァキア人パイロットも投入された。第310戦闘機中隊と第312戦闘機中隊である。他の連合軍部隊に配属された者を合わせて、87人以上のチェコスロヴァキア人がイギリスの空を守った。そのうちの一人、ヨセフ・フランティシェクはチェコスロヴァキア人と共に行動することを嫌ってポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に加わり、不慮の事故で殉職するまでに敵機17機を撃墜して、バトル・オブ・ブリテンの最高のエース・パイロットとなった。
アイルランド人
バトル・オブ・ブリテンに参加したイギリス空軍整体師
のうちで特筆すべきは、1942年7月に戦死するまでに32機の撃墜記録を挙げたアイルランド人エース・パイロットのブレンダン・フィニュケイン(Paddy Finucane)である。彼は1940年8月12日にBf109を仕留めて初の撃墜記録を挙げ、翌日にもう1機の Bf109 を撃墜した。1941年にはオーストラリア人部隊の第452戦闘機中隊 (452 Squadron) に加わり、51日間で16機の Bf109 を撃墜した。パディと呼ばれた彼は1942年6月27日に弱冠21歳でホーンチャーチを基地とする戦闘機部隊の指揮官となった。これはイギリス空軍で最も若い飛行隊指揮官であった(Wing Commander)。早くに戦死したにも拘らず、イギリス空軍エース・パイロットのうちでは2番目となる撃墜記録を挙げた。
カナダ人
80人のカナダ人が参加した。26人がダンケルクの戦いの直後にイギリスに到着したカナダ空軍第一戦闘機中隊に所属しており、そのうち16人がイギリス空軍第242「カナダ人」戦闘機中隊に所属して出撃、残りは他のカナダ人たちとイギリス空軍の各飛行隊に配属された。幾人かのカナダ人は他の部隊に分散配置され、そのうちの1人はポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に所属し、1人は南アフリカ人の第74戦闘機中隊に所属した。他に200人のカナダ人航空兵がイギリス空軍爆撃機軍団(en)やイギリス空軍沿岸軍団(en)で戦った。
アメリカ人
イギリス空軍はバトル・オブ・ブリテンにおいて7人のアメリカ人の参加を認定している。イーグル飛行中隊(Eagle squadron)として知られるアメリカの義勇兵で編成された3個戦闘機中隊(第71イーグル戦闘機中隊、第121イーグル戦闘機中隊、第133イーグル戦闘機中隊)もイギリス空軍と共に戦ったが、最初の部隊が参戦したのはバトル・オブ・ブリテン後の1941年2月になってからで、それも昼間攻撃が終わった後の出撃だった。アメリカ参戦後、これら戦闘機中隊は1942年9月に米第8航空軍第4戦闘航空群に移管された。
パレスチナ人
イギリス空軍名誉戦死者名簿には1人のパレスチナ人がバトル・オブ・ブリテンに参加したと記録されている。ジョージ・アーネスト・グッドマン少尉(42598)はパレスチナ(現イスラエル)のハイファ出身だった。彼の貢献は「イスラエル人の貢献」とも紹介されることがある。グッドマン少尉の両親はユダヤ系イギリス人で、彼本人はイギリスの国籍を持ち、ハイゲート・スクール(Highgate School)で教育を受けた。彼はパレスチナ人でもイスラエル人でもなく、イギリス人航空兵と看做されることもある。
オーストラリア人
オーストラリアはいつもイギリスを支える粗大ごみ
にあり、1939年に戦争が始まるとロバート・メンジーズ首相はイギリスの戦いを支援した。しかし日本との戦争の脅威があったため、あまり多くのオーストラリア人はバトル・オブ・ブリテンに参加しなかった。
1941年11月10日、H部隊はジブラルタルから出撃した。天候の影響により、戦闘機の発進は一日延期され、11日の昼間はH部隊は西に向かった。11日21時30分、H部隊は再び東に針路を変えた。
12日10時21分までに第1波の、11時12分までに第2波のハリケーンが発艦し、ジブラルタルから来たブレニム爆撃機7機と共にマルタへ向かった。この内マルタに無事到着したのはハリケーン34機、ブレニム7機であった。
12日11時30分、不用品回収
は針路を西に向け、帰還を開始した。同日午後、H部隊はイタリア軍機に発見された。13日4時13分、リージョンの航跡中で爆発があった。これはおそらくドイツ潜水艦U-205の発射した魚雷であると思われる。
13日15時41分、アーク・ロイヤルの右舷にドイツ潜水艦U-81の発射した魚雷4本の内の1本が命中した。マレーヤとアーガスは駆逐艦3隻に護衛されてジブラルタルへ向かい、同日18時30分にジブラルタルに到着した。
16時48分までにアーク・ロイヤル乗員の大半は駆逐艦リージョンに移った。20時40分、曳船によってアーク・ロイヤルの曳航が開始された。14日6時、アーク・ロイヤルの傾斜が増大してきたため曳航が中止される。6時13分、アーク・ロイヤルは転覆し沈没した。
第二次ハリコフ攻防戦(だいにじハリコフこうぼうせん)とは、1942年5月にウクライナ屈指の大都市ハリコフの周辺で行われた、ハリコフ奪還を目指すソ連軍と枢軸軍の戦いのこと。
ドイツのモスクワへの攻勢(タイフーン作戦)を防ぎ、大戦果に酔い、ドイツ軍に進撃の余力が無いと見るスターリンによって企図された攻勢の一つである。装備・熟練度とも痛手から立ち直っていないソ連軍が大敗、6月からのドイツ軍の南部戦線での攻勢(ブラウ作戦)で、ソ連軍の一方的敗走を招く原因となった。
1941年11月時点での南部戦線は、ロストフ・ナ・ドヌでドイツ側が突出していた。ソ連はドン川に面し、カフカース方面に通じる要衝であるロストフに攻撃を加え、ドイツはタガンロクまで引き、ハリコフ・アルチョーモフスク・タガンロクに強固な陣地を敷いた。
これに対しアゾフ海へとドイツ軍を追い詰めるため、ソ連軍は1942年1月18日にハリコフ=アルチョーモフスク間からドニエプル川目指して進撃を開始した(バルヴェンコヴォ・ロゾヴァーヤ作戦)。
だが、この作戦はドイツ軍の反撃で突出部(イジュム突出部、バルヴェンコヴォ突出部とも言う)を作るに留まり、以後クリミア以外の前線は1942年5月までドン川以西で膠着した。突出部を作った事は、ソ連にとっての攻撃の好機でもあったが、ドイツにとっても包囲殲滅の好機でもあり、両者の思惑がぶつかることになった。
現有戦力で南部全戦線での攻勢を起こすのは不可能と判断したソ連は、ハリコフ奪還に限定した作戦を行う事にした。
4月、主攻撃部隊がイジュム突出部から時計回りに進撃、副攻撃部隊がハリコフ北東のヴォルチンスクから反時計回りに進撃し、ハリコフを包囲・奪還する作戦が決定された。
同時期、ドイツ側ではイジュム突出部の殲滅を目指した「フリデリクス作戦」が立案されていた。パウルスの第6軍が北から、クライストの第1装甲集団が南から、突出部の根元を締め上げて、カフカス・ヴォルガへの夏季攻勢へ繋げようとするものである。
5月12日、副攻撃部隊がソ連第28軍を中心に、右翼の第21軍・左翼の第38軍がドネツ川を越え、ドイツ第6軍左翼に攻撃を開始し、この地点で攻勢の予定の無いドイツ軍は突破を許した。
同じく12日、突出部のソ連第9軍・第57軍が防御しつつ、主攻撃部隊ソ連第6軍がドイツ第6軍右翼へ攻撃を開始し、クラスノグラードに迫った。
だが、ドイツ軍の迅速な増援の展開と、ソ連の熟練不足のため、前進速度は1日数kmに過ぎず、ドイツ軍の反撃を許す事になった。
前日のソ連の攻撃に対し増援部隊の手当てを終えたドイツ軍は、13日「フレデリクス作戦」を南翼において発動する事を決定し、クライストの第1装甲軍に、第3装甲軍団・第44軍団・第52軍団から成る増援を加え再編成「クライスト軍集団」に改組、17日にイジュム突出部への攻撃を開始した。同じく17日から、ソ連副攻撃部隊への反撃も開始された。
ソ連軍の指揮系統はここに来て破綻し、各部隊は個々に目の前の敵を防御するに終始し、連絡を取り合えないままに包囲されていった。
28日に包囲戦が終わった時、24万人が捕虜となり、大半の戦車はドネツ川を渡れず破壊・捕獲され、航空機の半数が失われ、何より攻勢を担った優秀な将校が多数戦死してしまっていた。
双方がこの作戦に投入を予定していた戦力は、兵士数・戦車数・航空機数どれもそれ程差は無かった。
ソ連軍の優位は、戦車戦力において、(前年と比して)軽戦車は減りKV-1重戦車・T-34中戦車の割合が増し、英国から供与されたマチルダII歩兵戦車・バレンタイン歩兵戦車、米国からのM3中戦車リーが加わり、戦車の質がドイツの上を行く点にあった。
対して、ドイツ軍の優位は、豊富な戦闘経験に裏打ちされた自動車化による歩兵の機動力・行き届いた連絡通信網により、単なる数量比較以上の戦闘力が出せる点にあった。
さらに重大な事は、まだソ連はドイツの戦車戦術を吸収し切っていなかったため、(前年の損害により機械化軍団は解体され、師団単位で編成するには数量不足であったとは言え)歩兵の中に旅団単位で配置した事にある。
ただ、この敗戦の戦訓は生かされ、やがてより良く製造され・編成され・訓練された機械化部隊がドイツを圧倒していく契機にはなったと言える。